はろー(Hello)

合理的なアメリカ人に生まれなかったことを悔やむ楽々です。

世の中不公平なことだらけと思うのは私だけではないと存じますが、世界はだいぶ平たくなってきているように思いますね。

「令和の怪物」とされる若者の処遇を見ると、それを強く感じるのですわ。

 

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合理的とはかけ離れた高校野球

合理的に生きたいと常々思って生きる私ですが、大船渡高校の佐々木朗希くんが高校野球地方大会の決勝で投げなかった問題は、その意味を深く考えさせられます。

張本勲氏が大船渡高校監督の選手起用を厳しく批判。日本球界で最もヒットを打つなど、輝かしい実績を持つ同氏。張本氏がそのような批判をするということは、彼は昭和根性論で結果を残し、それを美徳とする最たる存在と言えるでしょう。

一方、海を渡ってメジャーの舞台に立ち、これまた非凡な実績を残すダルビッシュ有氏。彼は張本氏の発言を受けて以下のようなツイートを残し、波紋を呼んでいます。

 

シェンロンが一つ願いこと叶えてあげるって言ってきたら迷いなくこのコーナーを消してくださいと言う。

 

このツイートに賛同する人が続出するということは、昭和根性論が美化される時代が終焉を迎えようとしていることを強く実感します。

将来有望な若者がメジャーリーグを目指す風潮があるように、世の中がアメリカ中心の価値観に流れているような気がしてなりませんが、アメリカが理想的に見えてしまうのはなぜなのでしょうか。

ここで「アメリカとは何か?」という点を、考察していこうかと。

 

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合理的な国家とされるアメリカ

アメリカ大陸はコロンブスによって発見され、以降、ヨーロッパの人々が多く移り住み、独立戦争を経て国家が形成されたことは周知の事実かと存じます。

また、紀元前から歴史を持つ国がある中、18世紀に国家として成立した歴史の浅い国としても知られています。さらにはヨーロッパ系の白人、アフリカ系の黒人などの多く人種が住んでいます。

多種多様な人種が存在するということは、それに応じて多様な価値観が存在するはずです。合理主義者が多いとされるアメリカですが、その多様性を包括するが故と結論付けるのは、あながち暴論ではないでしょう。

合理的に生きたいと思うのは、私だけに限った話ではないと存じます。合理主義を至上とする人が多いとするならば、アメリカに端を発する価値観に傾聴する人が多いのは至極当然かと思われます。

そこで思うのは「合理的」とはそもそも何かという点に、疑問が残ります。

 

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合理的とは何か?

「合理」を辞書で引いてみると「物事の理屈に合っていること」ということだそうです。そこから思うに「物事の理屈」とは、捉え方や価値観で大きく違ったものになると感じるわけです。

身体を擦り減らしてでも甲子園のマウンドで投げ、人々を感動させることが使命とする人がいれば、それがその人にとって「物事の理屈」であります。若いうちには無理をさせず、将来長きに渡って活躍することが使命とする人がいれば、それがその人にとって「物事の理屈」ということ。

つまり合理的とは主観的な言葉であり、人によって本意とするところが変化するものだと思っています。

アメリカの成り立ちに話を戻しますと、封建的支配から逃れた文明人によって作られた国という側面を持ちます。彼らの「物事の理屈」とは自由と平等であり、それにそって生きることが合理的とされることは言うまでもありません。

自由と平等を謳う彼らによって作られた国家、つまりアメリカが様々な面で世界の国々をリードしているという点は、疑いようのない事実です。つまりはアメリカが主導する自由と平等という価値観こそが、生来人間が欲していた、若しくは即した生き方なのではないかと思うのです。

昭和根性論、並びに封建的主従関係という美徳の薄れは、現在のグローバルスタンダードであり、人間がまた一つ精神的に進化した結果であります。

とにもかくにも、封建的支配というWin-Loseで明らかに不合理と思われる価値観が一掃され、誰もが幸せになる世の中にならんものかと日々切望します。

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